再生音楽の文化的価値

仰々しいタイトルである。難しい話を書くつもりもないが、僕が書くとどうにも難しくなりがちである。今まで言ってきたことの繰り返しになることも多いが、一度まとめてみようと思う。まあ、諸事情によりこんなことを落ち着いて考えられる状態ではないのだけど、その諸事情をここで吐露するのは、相当気が引ける。とりあえずはやってみる。


いわゆる録音再生というものに対しては、時代とともにその扱いや価値というものは移り変わってきている。エジソンが蓄音機を発明したとき、まさかここまでのクオリティで音楽が再生できる時代がくるとは思わなかったに違いない。当時は不思議なカラクリ程度であったろう。それが今や、単なる「ライブの代わり」ではなくて、一つの作品として味わえる次元にまで達している。これはある意味で、というよりは、もう間違いなく、「実体験」である。それも繰り返し味わえる。書物と同じである。人間的な成長が作品の捉え方を大きく変えるという点においても、書物と似ている。書物は文字を記録しているのに対して、録音は音という空気の疎密波(圧力差あるいは振動)を記録している。それは文字と違って人間の目には見えないので、それを実際の空気の振動に置き換えてやる必要がある。それが音響機器(オーディオ)である。書物の場合でも、文字情報だけではなんともしようがないので、実際は紙に印刷したりしないといけない。いずれにしても、どちらも「情報」であることには変わりない。それを著した人の思いがパッケージされてそのまま残っているのである。まさに遺産。そこにパッケージメディアとしての価値がある。


オーディオ機器というのは、そうした遺産をよみがえらせる手段であり、非常に重要な位置を占めている。ただ、技術が成熟した今、質的な問題はほぼ解決されてしまい、量産製品であっても多くの人に満足を与えるようになった。結局それは、昔はミニコンポやラジカセであったり、今はiPodに代表されるポータブルプレーヤーである。完全に「手段化」したオーディオは、再生に付随する機能、サポートする機能の充実と軽さや薄さなどの持ち運びでの便利さが追求されるようになり、ハードウェア自身を意識することなく音楽を再生できるので、ある意味究極のオーディオ機器かもしれない。これについては、以前にこのブログでも触れたことがある。けれども、それによって音楽の価値が高まったかというと、必ずしもそうとはいえないように思う。量産製品で問題なく聴けるということは、別段音楽を聴くことに特別な感じを与えない。それに何の問題があるのか、という人もいるだろうが、例えば(極端な例ではあるが)エアーズロックがそこらへんにたくさんあれば、わざわざ観光として見に行く必要もないだろう。そこまででなくても、僕が京都にいるとき、二条城のそばに住んでいたのだが、特に二条城に行くことが特別でなくなったため、珍しさを感じない。得てしてそんなものであろう。敢えて見に行くのは、珍しいからである。音楽を聴くことも、結局珍しくなくなったため、どうも趣味として音楽鑑賞といっても、平凡な大衆娯楽的な印象を与えるのではないか。とはいえ、別に今の状況を否定するものでもないが。利便性を追求したオーディオもまた必要なのは事実である。というより、これだけ普及してしまうと、なくなったらなくなったでかなり支障が出てくる。僕が言いたいのは、今のように巷に音楽が溢れかえっていくと、その「情報」が重要になり、内容の充実はだんだん軽視されていくのではないか、という懸念があるということである。特にポップスはその傾向が著しい(今に始まったことではないが)。僕のように、音楽再生を「非凡」なものと捉えて、その追求に腐心する人もいる。でも多くの人がそう考えなくなると、資本主義経済が台頭する現在では、質を保った「特別な」録音再生を維持するのが難しくなっていく。要するに、世の中量産機器ばかりで溢れてしまうようになる。もうすでにそうなっていると思う。そうなると、作られるパッケージメディアも、量産機器での再生を前提とするため、質が低下していく。これの繰り返しをすると、量産機器が当たり前、それ以上の質で聴こうとしている人は変わった人であるという扱いになり、頑張っている人は逆に奇異な目で見られるようになる。CDの登場は、間違いなくこれを促進した。アナログディスクの時代は、再生するのにテクニックが必要であったり、ちょっと扱いを変えるだけで音が大きく変化したので、自然とハードウェアを意識するようになっていた。CDになってから、誰が再生しても一定の質を保てるようになったため、ハードウェアをあえて意識する必要はなくなった。それなら量産機器でよい、ということになり、上記のような流れになったのだろう。


救いに感じるのは、クラシックやジャズが依然として高い質を保っていることであり、さらには少数ではあるが細々と質の高いオーディオ機器を作り続けているメーカーがあることである。クラシックやジャズは、打ち込みによるレコードは通常されず、アコースティック楽器を使用するため、再生が難しい。難しいといっても普通の人が考える難しさではないが。しかしながら、これらのジャンルを聴くは音質を重視する層が多いのは事実であり、逆にオーディオファンはよくクラシックやジャズを聴く。パッケージメディアの質とオーディオが一体になって初めて、いい音楽再生ができることがわかっているからである。お互いの協力により、今のような再生音楽の文化が出来上がったといってよい。ただ、量産できないからといって何百万円、何千万円といったオーディオシステムを作るのは、夢があっていい話ではあると思うが、生活にマッチしていないのは明らかだと思う。そこまで行かなくても、それと次元を同じくするためには50万円くらいのシステムは必要である。それならまあ大型の液晶テレビと同じくらいの値段なのでいいかもしれないが、買う人は少数だろう。オーディオというのは、言ってしまえばそれくらいの価値になっているということである。音楽も然りである。質が低くても、ようつべなどでタダで手に入ればよいという人も多く存在する。


じゃあどうしたらいいの、と言われると、そいつが難しい。価値観の多様化とはよくいったもので、おおっぴらに音楽再生を趣味として薦めることは押し付けととらえられかねない。僕が今できることは、できるだけ多くの人にいい音楽を味わってもらうことだけである。だから訪問は歓迎するし、こちらから招待したりもしている。布教活動?である。そうすることで、趣味にしてもらうまではいかないにしても、音楽に対する意識を変えてもらうだけで、価値というのは高まると思っている。


ちなみに、あえて音楽である必然性はない。みんな自分が拠所としている価値観や趣味はあるはずである。それぞれが他の人に魅力を伝えていく活動をすれば、世の中もっと面白くなると思う。押し付けと思わず、自分の世界を広げると思えばいい。MTBの布教活動も同時に進行させているのはそのためである。自由と言うのは、なんというか拠所がなくてふわふわしていて頼りないが、その中で道標となるものに出会えたら、幸運であると思う。そうした人たちが、今後価値観が多様化する中で、遺産を受け継ぎ文化を創っていくのだと、僕は密かに思っている。