価値観の多様化と言われてはいるが


現代は、「価値観の多様化」という言葉をよく使う。実際そうなのかもしれない。
そもそも何が多様なのかといえば、ライフスタイルの多様性であったり、趣味の多様性であったり、ポジティブな表現をするなら「自由」といったところだが、ちょっと皮肉って言うと「でたらめ」っていうところだろう。
その一方で「グローバル化」という言葉もよく耳にする。もう随分前からだが・・・。グローバル化っていうと、むしろ価値観の画一化へ向かうもののように思える。例えばアメリカ流のやり方を世界に広めていくとか、スタンダード化するとかそういったものだと捉えているから。
でもこれらの概念は矛盾することがない。最近で価値観の多様化を一番促したのはインターネットだと思うし、インターネットは世界と一瞬でつながることができる完全なグローバル化のツールである。狭い世界に閉じこもっていた昔とは違い、ネットがあればあれもこれもできる。情報一つとっても、昔は新聞やTVしかなかったから、そこで得られる情報とコメントがすべてだったけど、ネットでは一つの記事に対して実に様々なコメントが寄せられる。以前は一方的に受けていたものが、ネットという公共の場にさらされることで比較的色々な角度から見ることができるようになった。内容の良し悪しはまた別の問題だけれども。結局、グローバルに世界の色々な出来事や生き方、価値観に触れられるようになったことが多様化をもたらしたと言えるのではないか。

さて、前置きはこのぐらいにして、「価値観」というものに焦点を置いて話を続ける。価値観というと堅苦しい言い方ではあるが、要は自分の嗜好、生き方、そういったところである。世間は価値観の押し付けと称し、自分が支持しない、あるいは受け入れがたいものをはねつける。「それはあなたの考え方でしょう、押し付けないで!」といった具合にである。
しかし、である。それは本当に価値観の問題だろうか? というより、多様性とは言いつつも、実際はそんなに多様でも何でもないのではないかと僕は感じる。その「多様」と呼んでいるほとんどのことは、どうも「小手先で本質的でない」ことに思えてならないのである。僕が多様だと感じるレベルは、プロ野球の選手になるとか、ビジネスで大成功するとか、そういったレベルの話であって、週末に習い事をするとか音楽で何を聴くとかどんな食べ物が好きであるとかそんなレベルは別段特別であると思わないし、それが自分の価値観であるとは思っていない。それでも嗜好の多様化と呼ぶのかもしれないが、実際は何か「規格品」の中から取捨選択しているだけの話であって、多様なのはその「選択肢」の方である。当人の努力や工夫の結果生み出すものには遠く及ばない。シャネルやルイヴィトンのバッグを欲しがる女性(失礼!)も、自身のステータスとして高級車を買ったり高級オーディオを買ったりする人も、単にお金を持っていて選択肢の幅を広げているに過ぎず、本質的な多様性には至っていないと「僕は」思う。(こう注記しておかないと、意見の押し付けと捉えられそうですからね。)

自分はどうなのか? というと別にそんな大そうな生き方をしているつもりはない。ごく平凡だと思っている。ただ、自転車とかオーディオ・音楽といったものは、すでに趣味の領域を超え、ライフワークと化している。エコのため、あるいはファッションやダイエットのためではなく、自転車に乗ることそのものが目的。だから決まって自転車の話題は自転車に終始する。別のところに飛ばない。ギア比がどれくらいだとかカラーチェーンがかっこいいとかホイールやハブが・・・そんな感じである。趣味か? と言われると、ちょっと娯楽的な印象を受けるのでそこまで軽くもない(僕自身は「趣味」をもっと深いものと捉えているけど)。オーディオも確かに買い物の趣味なのかもしれないが、買った後の使いこなしを考えると、単純に買って終わりのものでもない。むしろ買ってからが大変。どちらも、「規格品」の枠を超えるにふさわしい「使いこなしの深さ」がある。それは、道具を扱うということに自分の生き方が現れるということである。別にそれが道具でなくても、スポーツでもなんでも良い。おいしいお米を作ることだっていい。僕はそれがホンモノの(と書くとちょっとニセモノっぽくなるが)多様性であると思う。つまり生き方の多様性。自分にとってそれが誇りになるものであれば何だっていい。誰かのため、大切な人のために何かをすることだっていい。音楽は誰のファンであるなんて別段価値観だとも思わないが、そこに命がけの理由があるならそれも生き方の一つであろうと思う。

とりあえず言いたかったのは、価値観の多様性とは、選択肢の幅が広いということではなくて、少ない選択肢でもそこに様々な自分の生き方を見出しているか否か、ということである。モノづくりにしたって、エコとか今年の流行がこれだとかこんなものを作れば売れそうだとか、そういった小手先のことはもう飽きた。人に愛着を持ってもらえるもの、末永く使ってもらえるもの、所有することに高い満足感を得られるもの、そういう本質的なものをタテマエを廃して作ることができるメーカーがどれだけあるかで、これからの愉しみ方が変わってくる。そうなってくれないかなぁ。切に願いたいところ。とはいえ現実を見据えると難しいんだろうなぁ。まあ、自分がそんなモノづくりをすればいいだけの話ではあるが。