東京インターナショナルオーディオショウ2006 その②

ティアック・エソテリックカンパニーのブースにおける
菅野沖彦氏の講演について思うところがあるので、少し書いてみる。


氏は、オーディオがなぜ趣味たりうるのかということについて、
具体的に、スピーカー技術の未熟さが様々な音を生み出していることを
例に挙げておられた。
その論理でいけば、録音・再生システムの不完全さが
多種多様の音を作り出していて、リスナーは各々で自分が聴いて
最も心地よい、最も自然に感じる、最も魂を揺さぶられる音を追求する、
その行為がまさに自己表現であり趣味なのでは?
氏が著している「レコード演奏家論」の内容がそのとき頭をよぎったのだが、
著書に書かれていることは、まさにそのことなのである。


オーディオ、再生音楽の究極は? または最終的に目指しているものは?
よく聞く質問である。
でも残念ながら、企業としては目標とする音はあると思うが、
それを組み合わせて、さらには自分の家に設置して聴くというのだから、
究極の音は「リスナーの数だけある」といわざるをえない。
なぜなら、数あるオーディオ機器の中から、すばらしいと感じ、
部屋のシステムに導入すればこんな音がするに違いない、
自分の好みの方向性に持っていけそうだ、などと判断・選択するのは
リスナーの世界観や感性、バックグラウンドなのだから。
物理的な究極は時間、空間を一致させた再生なのかもしれないが、
実際問題そんなことは不可能であるし、
「音楽を愉しむ」という本来の目的からは大きくはずれてしまう。

      • -


でも、やっぱり音の違いを認識できない人にとっては、
重箱の隅をつつくようなことをやっているようにしか見えないんだろうな。
まあ大抵のオーディオファンもそのことは認識しているのだろうけど。
ただ、言いたいのは、「微妙な違い」を追求するのが楽しいのであるし、それが趣味なんだ。
オーディオの発展は大衆にも多くの恩恵をもたらしているのに(たとえば音声のデジタル化)、
そんな業界を変人の集団扱い。これって不当だと思いません?w