音楽鑑賞に関する雑感(3)


少しずつプレーヤーの音が安定してきたように思う。
残念ながら切換え当初のような大きな変化はもはやなく、
感動も薄れがちなのであるが、まあそれはそれ。
いい音には違いなく、相対評価ではなく、絶対評価に変わりつつある。
今の僕のオーディオシステムの音は、これなのであって
いつまでも前の音との比較ばかりやっていくわけにはいかない。
システムとしては、大きく前進したと思う。
これからは今の音をじっくりと聴きこんでいくことが大切と感じる。
ある程度冷静に見れるようになったということかな。


何度も強調するけれども、音楽鑑賞において、音楽とオーディオは相互補完的なものであって、
バランスを欠いてしまうとなかなか音楽を深く味わうことに至らないと思う。
ただそれだけでは漠然としているので、もっとはっきりというと、それは「録音」と「再生」の関係です。
これは音楽を求めていくと、必ずといっていいほどぶつかる問題であります。


「録音」というと、一般のリスナーはどう受け取るでしょうか。
あのCDには、シングル曲のリミックス版が入っているんだな、とか
アレンジバージョンが収録されている、とか、おそらくはそのくらいの認識なのではないかと勝手に想像します。
けれども、僕にとっての録音はそのレベルではなく、
例えばポップスであっても、ボーカル・ドラム・ベースなどの位置関係、
どこにマイクを置いて録っているか、どこで演奏されてるか、果ては録音機器は? というところまでに関心が及びます。
特にクラシックではそれが顕著で、どこのホールで録音されているか、
どのレーベル(あるいはレコーディング・エンジニア)かが、録音される音楽を大きく左右します。
同じ演奏家と楽器、同じ環境であってもマイクの置き方一つで聴こえる音楽が変わってきます。
いや、変わるなんてものではない次元のものもあります。
興味がある方は、こんなディスクが参考になるかと思います。


菅野レコーディングバイブル (SS選書)

菅野レコーディングバイブル (SS選書)


例えばピアノ一つとっても、録る人の感性と主義によって、直接音をよりクローズアップして録る場合もあれば、
間接音を適度に含ませて録る場合もあるでしょうし、逆にバックグランドで鳴らしたい場合は直接音を少なめにするかもしれません。
つまり、今自分たちが聴いている音楽は、録る人が演奏家の状態や特徴、嗜好などを考慮したうえで
考えて録音されているのです。(そういうことにあまり気を遣っていない録音も散見されますが・・・)
そこまで考え抜かれ工夫をこらして「音の真の姿」を捉えようとした音楽ソースを、果たして「適当に」再生していいものか、
それは個人の信念に左右されるのかもしれませんが、少なくとも僕が真剣に音楽再生をやろうとしているのは、そういう理由からなのです。
最高の状態で録音されたものを、最大限引き出したい、それがリスナーである僕の願いであり、オーディオ専業メーカーもきっと同じことを考えているはずです。
彼らこそ僕のような一般市民よりも大の音楽ファンなのであり、そうでなければ「質」を優先したものづくりができるはずがありません。
逆に量産型のオーディオでは、音楽の本質を味わえるような音はまず期待できないと思いますが、それは個人の「価値観」ということにしておきましょう。
音楽鑑賞に重きを置かない人は、べつにミニコンポであっても携帯プレーヤーであっても音楽を鳴らすことはできるので支障はありません。
ただ、オーディオファンにとって音楽を鳴らせることは別段重要ではなく、その「質」にこそ意味があるのです。


「芸術の本質は細部にこそ宿る」とかいう言葉をどこかで聴いたことがあります。
ポップスならちょっと話は違いますが、たとえばクラシックでは同じ曲をいろんな演奏家が弾きます。
そこで違うのは、やはり楽器の使い方や音色であったり、曲の解釈であったり、細かなアレンジであったり・・・
そしてそれをニュアンス豊かに演奏するのです。僕はそれを聴きたいのです。
別にCDでもSACDでもアナログディスクでもかまいません。
謙虚に音楽へ耳を傾けているとき、僕の頭の中にはオーディオはありません。


これが、巷で高音質、と称して圧縮音源のビットレートを上げたり、
CDレベルの高音質!(地上デジタル放送) と言ってみたり、「原音に忠実」と軽々しく言っている連中が
ひどく胡散臭く、かつ薄っぺらく感じる理由なのです。
特に地デジの「CDレベルの高音質」ほど馬鹿にしているものはありません。
ソースはそうかもしれませんが、フォーマットがよくなったから即音がよくなるなんてありえなく、
「再生」側にどれだけ依存しているかなどNHKは喋りません。宣伝している人は知っててペテンにかけようとしているのかもしれないけど。


(たぶん、つづきます)