久々に・・・


言わずと知れた(というほど一般的には有名でもないか)、オープンソース組版ソフトウェア。Dr.Knuth博士が開発した「TeX」に「LaTeXマクロ」を加えたものが、LaTeX。日本語版は「pTeX」「pLaTeX」で提供されており、現在の最新版「2e」ポピュラーに用いられている。

最近、会社の設備関係のマニュアル作成で、久々にLaTeXを使ったのである。忘れていたことも多いが、むしろ新しく学ぶこともあって、大学時代の記憶がよみがえってきた。さらに調子に乗ってこんな本まで手に入れた。吉永徹美さんの著書である。

独習 LaTeX2ε

独習 LaTeX2ε

前から新しい著書を出していたのは知っていたが、LaTeXの基礎から初めて、実用的なコマンドやパッケージの使用方法まで詳細かつ網羅的に書かれた本は他に類を見ない。まだ途中だけども、基本的なことであっても割と知らなかったり、正確な意味を初めて把握できたりと、以前の知識で所々欠けていた部分が埋められていく感じ。後半のマクロ作成の基礎部分を読破すれば、下に紹介する書籍も読めるようになっていくのではないか。まあ基礎編でも非常に難しかったが・・・。昔この『独習LaTeX2e』があれば、もしかしたらこれらは買わなかったかもしれない。

LATEX2ε マクロ&クラス プログラミング基礎解説

LATEX2ε マクロ&クラス プログラミング基礎解説

LATEX2εマクロ&クラス プログラミング実践解説

LATEX2εマクロ&クラス プログラミング実践解説

とはいえ、すでに希少な書籍になっているので、あの時買っておいてよかったのかとも思う。いつ使うのかというと甚だ疑問ではあるけれど、とりあえずまた趣味でLaTeXを少しずつ勉強していこうかと思ってる。最近面白いことがないから。Excelのマクロ/VBAも勉強中なのだが実用的なものだけだとやっぱり楽しくないのだ。使えるプログラミング言語として、C・HTML・LaTeX、あとまだできていないけどJavascriptかなあ。Firefox拡張機能を記述できるようになるし。

初歩的ながらよく使用する\def、\let

文章でよく使用する命令の組み合わせは、\defで定義しておくと便利である。

\def\(命令名){(定義内容)}

のようにして使う。たとえば、こんな感じで・・・

\def\trump{$\clubsuit$$\diamondsuit$$\heartsuit$$\spadesuit$}

また、\letは命令をコピーするのに使う。あるいは、命令を再定義するために一時退避させたりするために使用する場合もある。あんまりよくない例かもしれないけど、まあこんな感じで使ってみる。

\makeatletter %@を文字として使用できるように
\def\trump{$\clubsuit$$\diamondsuit$$\heartsuit$$\spadesuit$}
\let\trump@two\trump %\trumpを\trump@twoへコピー
\def\trump{\trump@two\trump@two}
\makeatother %@の扱いをデフォルトに

とすると、

\def\trump{$\clubsuit$$\diamondsuit$$\heartsuit$$\spadesuit$$\clubsuit$$\diamondsuit$$\heartsuit$$\spadesuit$}

と定義したのと同じことになる。

\defも引数を取ったり、書式指定をしたりと色々な使い方があるが、それは書籍に譲る。こんな風に比較的簡単に導入できるので、マクロの初歩を知るだけでも文書作成の負担を大幅に軽減できる。そして他人の書いたマクロも少しずつ読めるようになる。

LaTeXの魅力は、極めて精密な組版制御ができ、章や節の自動番号割付や相互参照などの機能が備わっていること。プログラミングしながら文書が書けるというのも面白い。定型文書であればLaTeXが大きな力を発揮するだろう。やたら図を張り込んだりするものだとExcelの方がよいのだが・・・。LaTeXの方が正確だけどもその制御に時間がかかる。直感的にできないのが欠点でもあり、利点でもある。作成する文書の種類によって賢く使い分けていけばよいと思う。僕はただ単に楽しいからLaTeXをやっているようなものなので、仕事上でなければあんまり気にしない。こんなに面白いものはないなぁとつくづく感じる。

価値観の多様化と言われてはいるが


現代は、「価値観の多様化」という言葉をよく使う。実際そうなのかもしれない。
そもそも何が多様なのかといえば、ライフスタイルの多様性であったり、趣味の多様性であったり、ポジティブな表現をするなら「自由」といったところだが、ちょっと皮肉って言うと「でたらめ」っていうところだろう。
その一方で「グローバル化」という言葉もよく耳にする。もう随分前からだが・・・。グローバル化っていうと、むしろ価値観の画一化へ向かうもののように思える。例えばアメリカ流のやり方を世界に広めていくとか、スタンダード化するとかそういったものだと捉えているから。
でもこれらの概念は矛盾することがない。最近で価値観の多様化を一番促したのはインターネットだと思うし、インターネットは世界と一瞬でつながることができる完全なグローバル化のツールである。狭い世界に閉じこもっていた昔とは違い、ネットがあればあれもこれもできる。情報一つとっても、昔は新聞やTVしかなかったから、そこで得られる情報とコメントがすべてだったけど、ネットでは一つの記事に対して実に様々なコメントが寄せられる。以前は一方的に受けていたものが、ネットという公共の場にさらされることで比較的色々な角度から見ることができるようになった。内容の良し悪しはまた別の問題だけれども。結局、グローバルに世界の色々な出来事や生き方、価値観に触れられるようになったことが多様化をもたらしたと言えるのではないか。

さて、前置きはこのぐらいにして、「価値観」というものに焦点を置いて話を続ける。価値観というと堅苦しい言い方ではあるが、要は自分の嗜好、生き方、そういったところである。世間は価値観の押し付けと称し、自分が支持しない、あるいは受け入れがたいものをはねつける。「それはあなたの考え方でしょう、押し付けないで!」といった具合にである。
しかし、である。それは本当に価値観の問題だろうか? というより、多様性とは言いつつも、実際はそんなに多様でも何でもないのではないかと僕は感じる。その「多様」と呼んでいるほとんどのことは、どうも「小手先で本質的でない」ことに思えてならないのである。僕が多様だと感じるレベルは、プロ野球の選手になるとか、ビジネスで大成功するとか、そういったレベルの話であって、週末に習い事をするとか音楽で何を聴くとかどんな食べ物が好きであるとかそんなレベルは別段特別であると思わないし、それが自分の価値観であるとは思っていない。それでも嗜好の多様化と呼ぶのかもしれないが、実際は何か「規格品」の中から取捨選択しているだけの話であって、多様なのはその「選択肢」の方である。当人の努力や工夫の結果生み出すものには遠く及ばない。シャネルやルイヴィトンのバッグを欲しがる女性(失礼!)も、自身のステータスとして高級車を買ったり高級オーディオを買ったりする人も、単にお金を持っていて選択肢の幅を広げているに過ぎず、本質的な多様性には至っていないと「僕は」思う。(こう注記しておかないと、意見の押し付けと捉えられそうですからね。)

自分はどうなのか? というと別にそんな大そうな生き方をしているつもりはない。ごく平凡だと思っている。ただ、自転車とかオーディオ・音楽といったものは、すでに趣味の領域を超え、ライフワークと化している。エコのため、あるいはファッションやダイエットのためではなく、自転車に乗ることそのものが目的。だから決まって自転車の話題は自転車に終始する。別のところに飛ばない。ギア比がどれくらいだとかカラーチェーンがかっこいいとかホイールやハブが・・・そんな感じである。趣味か? と言われると、ちょっと娯楽的な印象を受けるのでそこまで軽くもない(僕自身は「趣味」をもっと深いものと捉えているけど)。オーディオも確かに買い物の趣味なのかもしれないが、買った後の使いこなしを考えると、単純に買って終わりのものでもない。むしろ買ってからが大変。どちらも、「規格品」の枠を超えるにふさわしい「使いこなしの深さ」がある。それは、道具を扱うということに自分の生き方が現れるということである。別にそれが道具でなくても、スポーツでもなんでも良い。おいしいお米を作ることだっていい。僕はそれがホンモノの(と書くとちょっとニセモノっぽくなるが)多様性であると思う。つまり生き方の多様性。自分にとってそれが誇りになるものであれば何だっていい。誰かのため、大切な人のために何かをすることだっていい。音楽は誰のファンであるなんて別段価値観だとも思わないが、そこに命がけの理由があるならそれも生き方の一つであろうと思う。

とりあえず言いたかったのは、価値観の多様性とは、選択肢の幅が広いということではなくて、少ない選択肢でもそこに様々な自分の生き方を見出しているか否か、ということである。モノづくりにしたって、エコとか今年の流行がこれだとかこんなものを作れば売れそうだとか、そういった小手先のことはもう飽きた。人に愛着を持ってもらえるもの、末永く使ってもらえるもの、所有することに高い満足感を得られるもの、そういう本質的なものをタテマエを廃して作ることができるメーカーがどれだけあるかで、これからの愉しみ方が変わってくる。そうなってくれないかなぁ。切に願いたいところ。とはいえ現実を見据えると難しいんだろうなぁ。まあ、自分がそんなモノづくりをすればいいだけの話ではあるが。

噂の高音質CDの実体験

いちおう、一通り聴いてみた。結果は、

  • Blue-spec CD:これはいい
  • SHM-CD:通常CDでよい
  • HQCD:通常CDの方がよい(ただしリマスター版はこの限りではない)

である。この結果に不満がある人はぜひコメントをいただきたい。
ただし比較に使用した音源・曲・オーディオシステムの条件は必ず記載のこと。

Blue-spec CD

ソニーSony Music Entertainment)によれば、

  • Blue Laser Diodeによりビーム品質を向上、より正確なカッティングが可能になっている
  • Blue-ray Disc用に開発された高分子ポリカーボネート採用により、より正確なピットの形成

という2つの技術により、ジッターを排除しマスターテープクォリティに近づけているという。


どうもこの「マスターテープクォリティ」という言葉が高音質CDの鍵になっているようなのだが、実際に聴いてみると、これらの素材すべてが「固有の音色」を持っていると感じる。もちろん、通常CDもそうであると思う。もし、最初からSHM-CDの素材でCDが作られていたら、当然それをリファレンスとしてプレーヤーの開発が行われていたに違いない。その意味で、僕らの耳は通常CDに慣れきっている。それと異なる音色の素材に出会ったときどういう反応を示すか? それは人それぞれであるだろうが、やはり基準となるのが通常CDであるのは間違いない。
この観点でBlue-spec CDを考えたとき、音色自身の話をすれば、奇跡的?というべきか、あるいはフォーマットリーダーとして意図的に行っているのか、通常CDと大幅な音色の違いがないのである。違うのは、質感・肌合い、あるいは音触のしなやかさである。大雑把に言うと、SACDに近い鳴り方。刺激的な音がしないので聴き疲れしない。SACDほどの開放感・空間感はないものの、音場の緻密さや余韻などはなかなかのもの。これなら通常CDの代わりになってもまったく問題ない、どころか、むしろ作れるならこちらで作って欲しい。

SHM-CD

液晶パネル用のポリカーボネートを使用したCD。反射率の向上・正確なピット形成を目的としているよう。ただ、この「反射率の向上」というものに僕は若干の疑問が残る。果たして反射率の向上が音質向上をもたらすのだろうか? 時間軸の揺らぎ(ジッター)というのは、音質へ決定的な影響を与えることは、クロック換装による効果から確認済みだが、別に反射率が向上しても読み取る記号自身は変わらないような気がするが・・・。でも実際は音が変わる。ただ、クリアな印象はあるものの、若干重心の位置が高くなる傾向があり、少しシャリシャリした音触に感じる。上質な音という印象はなく、僕のオーディオシステムでは、むしろ通常CDの方が落ち着いてクラシックを聴ける。ジャズはサンプラーを持っていないのでよくわからないが。敢えてSHM-CDを選ぶ理由は特にないというのが結論である。

HQCD

SHM-CDと同様に液晶パネル用のポリカーボネートを使用しながら、より「反射率」を高めるため反射膜に特殊合金(通常はアルミ)を使用したもの。こちらはEMIクラシックやDENONクラシックなど色々なところからサンプラーが発売されている。音色は、SHM-CDの特徴をより強くした感じである。よりシャリシャリしている。単純にHQCD版にしてしまうとまずいと考えたのか、DENONクラシックではさらにリマスターを施している。これはこれで音の構成が変わっているのでよくわからないが、聴いた印象ではリマスター版の方が癖のない音質に仕上がっていると感じる。クラシックには不向きなのでは? と思うくらいにウチのシステムでは癖が出てしまう。単純にこの素材を使ってCDの代わりとするのにはかなり抵抗がある。メーカーは再検討してもらいたいところであるが・・・どんなシステムを使って音質評価をしているのだろうか。それが気になる。

まとめ

結局冒頭の結論に至ってしまうわけだが、やっぱり通常CDとの音色差が大きいものについては、僕にとっては受け入れがたい。SACDについては素材はよくわからないが、通常CDと大幅な音色の違いはないので、自然と受け入れられていたが、こうも新素材が乱立してくると、あまり素材を無視できなくなる。今は試行錯誤の状態かもしれない。メーカーとしても、今後SHM版とかHQ版に移行していこうとしているのか方針は見えない。Blue-spec CDについては音に問題はないと思うので、コストを下げて通常CDと同じ価格であの音質を実現して欲しい。SHM-CDやHQCDは、別にどちらでもよいと思うが、もしやるのであれば必ずリマスターを行って欲しい。でないと通常CDに慣れた、耳の肥えた人たちに見捨てられるかもしれない。割と好評価を耳にするのであるが、もしかしたら僕の耳がおかしいのだろうか? まあそれもあるかもしれないが、それでも評価するシステムは非常に重要だと思う。正直、ラジカセやミニコンポでBlue-spec CDの音質差を味わえるとはいいがたい。HQCDなら違いが分かるような気がする(癖が強いので)。むしろその癖のある音が好きな人にはたまらないのかもしれないが、クラシックはもっと落ち着いていて重心の低いものの方が似合うと思うのは僕だけだろうか・・・。

何度も言うように、ジャズやポップスだとまた事情は違ってくる。要は、適材適所を行えばよいということ。別に新素材CDがすべて悪いというわけではない。でも通常CDを代替するのだけは当分待って欲しいところではある。市場によって淘汰され、結局はまた通常CDに戻ってしまうとしたら、それはそれで面白くはあるが。

Mr.Childrenのこと(2)

さて、第二弾。いってみましょうか。
つれづれなるままに書くので、まとまりはないけども。

アルバムの曲構成について

『深海』は非常に特徴的だと思う。このアルバムを作ったときの彼らの心境はどんなだったのだろう。

深海

深海

『Atomic Heart』でもそうだが、前奏曲や間奏曲?のようなものがよく入る。まあ皆知っていることだろうけど。最近では『Home』なんかでもそう。途中に入れることで、うまく歌のアクセントになっているのが面白い。『深海』では、『Dive』『シーラカンス』『手紙』や『ゆりかごのある丘から』『虜』がつながってるし、『名もなき詩』の前の『Making Songs』、『マシンガンをぶっ放せ』の前の『臨時ニュース』などが奇妙だが味があっていい。特に、『ゆりかごのある丘から』と『虜』の間は、ヘリコプターのバタバタバタバタという音と『虜』のドラムのドドドドドドドドという音がつながるユニークな構成。こんな感じで書いていくとキリがない・・・。要はアルバムの曲順と構成に大きな特徴があるのだ。僕が彼らのベストアルバムを欲しいと思わないのは、全部持っているからということもあるが、別段ベストであることに意味を感じないから(彼らにとってベストアルバムを出したことは意味があったみたいだけど・・・)。アルバムを聴いていくと、ミスチルの音楽の変遷がよくわかる。

僕のお気に入りは、全部よいのだけど、あえて!挙げるとすれば『深海』『Discovery』『Q』『It's a wonderful world』『シフクノオト』『Home』『SUPERMARKET FANTASY』かなぁ。活動休止から再開した後のアルバムばっかりだわ。でも僕は常に「今の」ミスチルが好きです。曲を聴かずに買うグループなんて彼らくらいなもんだ。

Discovery

活動休止後、最初に発売したアルバム。ここからミスチルの音楽は変わり始める。少なくとも、『ボレロ』までの流れは断ち切った感じだが、まだ手探り感も残る。

DISCOVERY

DISCOVERY

『終わりなき旅』は、なんというか卒業式の定番曲らしいが、確かに歌詞はそんな感じがする。「閉ざされたドアの向こうに新しい何かが待っていて きっときっとって 君を動かしてる いいことばかりでは無いさ でも次の扉をノックしよう・・・」それでも普通の人が歌うには難しいしハイトーン過ぎる気がする(サビのキーが最後に+1、+2上がるので)でもおすすめです。いい曲だと思う。
あと、素朴な『Simple』。曲はシンプルかもしれないが、遠回りしたけど探していたものがこんなシンプルなものだと気づいたんだ、という内容の歌詞は感慨深い。内に秘めた力強さを感じる曲。
一番のお気に入りは『I'll be』。酒を飲んだ状態でレコーディングしたなどという噂を友人から聞いたことがあるが、それはさておき、元気付けられる曲である。「何度へましたっていいさ 起死回生で毎日がレボリューション」は面白い発想! 録音がシンプルで桜井の声の魅力が存分に伝わる。歌うにはかなりの覚悟が必要・・・。あと曲が長い。『終わりなき旅』もそうだが。


これは蛇足だけども、この『Discovery』からアルバムのジャケット構成が定型ものから変更されている。ディスク入れ+歌詞カードという意味では同じだが、歌詞カードがジャケットから完全に分離されている上、ディスク入れもなぜか紙で作られていて、中にビニールシートが敷かれている(ディスクを傷つけないため?)。正直、あんまり使い勝手がいいとはいえないものの、歌詞カードは分離された分ちょっと大きくなったのでまあいいか。この後の『Q』もまったく同じ構成で、『It's a wonderful world』では写真のアルバムのような感じになった。歌詞が書かれた本の中にディスク入れがある(しかもすべて紙)。まともな定型のアルバムといえば『I Love U』くらい? でもあれも歌詞カードの中の歌詞の並べ方が変だった。結局まともなアルバムなんてそれ以降作られていないのか? とも思う。一番まともな構成なのは『SUPERMARKET FANTASY』だろうか。曲も変な間奏曲っぽいのも前奏曲もないし・・・。曲はすごいけど。


このままだらだらともう少し続けてみる。

Mr.Childrenのこと(1)

前から書きたいなぁと思いつつも、敢えて避けてきた話題である。
言わずと知れた、日本を代表するモンスターバンド、『Mr.Children』。きっと好きな人も多いはず。


ミスチルは、僕の音楽生活の常に中心にあり、クラシックやジャズを多く聴くようになった今でもそれは変わらない。中学2年のとき『イノセントワールド』に出会って以来、15年間にわたって(一時期離れたこともあるが)彼らの音楽を聴き続けてきた。最近も精力的に活動していて、2008年末に発表した『SUPERMARKET FANTASY』の出来はすばらしく、いつも「旬」の音楽を届けてくれる彼らにいつも感動をもらっている。もうすでに解散したグループを除いて、今でも昔のアルバムを聴き返しているのは、唯一彼らだけだといえる。

出会い

上にも書いたように、彼らの音楽を聴くようになったのは『イノセントワールド』からである。

イノセントワールド

イノセントワールド

この曲が中学2年のときのクラスの学芸会の発表(歌)の候補になっていて、結局採用されなかったのだが、個人的に凄く好きだったので、次に発表された『Tomorrow never knows』も買った。ドラマの主題化にもなったメガ・ヒット曲である。存在自体は、『CROSS ROAD』のヒットチャートランクイン(CDTV)から知っていたのだがこれら2曲はその後のミスチルの成功を決定付けたと思う。アルバム『Atomic Heart』も買って、家のラジカセでよく聴いていた。当時は結構カラオケが流行っていて、声変わりしていた時期でつらかったけど、いかにしてこの2曲を上手に歌うか、友達とちょっとした競争をしていたほど。僕は生来声が低いので今でもハイトーンボイスは出せないが、ファルセットを組み合わせることでその欠点はほぼ克服しつつある。まあ、それは置いておくとして、ミスチルに限らずこの頃はヒットといえばミリオンが当然、J-POPの全盛期と言えるのかもしれない。ミスチルに出会うまでは、WANDS(すでに解散)、B'zなどのロック系の音楽を聴くことが多かった。この時点では、まだオーディオに目覚めてはいなかったが、家に割と本格的なステレオをそろえていた友人とも出会っていて、すでにオーディオの世界は体験していた。


『Atomic Heart』以前、ミスチルはすでに『Everything』『Kind of Love』『Versus』というアルバムを出していて、まもなくすべて揃えてしまった。それらは純粋で素朴なラブソングが多く、『Atomic Heart』から彼らの音楽は大きくイメージを変えたといえると思う。シングルではないが、『星になれたら』『My Life』などのアルバム曲は、ミスチルファンの中では有名であり、名曲として知られている。

名もなき詩

名もなき詩

名もなき詩

ドラマ「ピュア」に採用されたこの曲は、『イノセントワールド』『Tomorrow never knows』のイメージとは大分違う、多彩な曲だと思う。サビの「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて 気が付けばそこにある物」の歌詞は有名である。テンポが途中で目まぐるしく?変わる、楽しい曲である。と同時に、この曲以降すごくメロディーが難しくなってきたと感じる。数あるミスチルの曲の中でも人気が高く、僕も最も好きな曲の一つ。「あるがままの心で生きられぬ弱さを 誰かのせいにして過ごしている 知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中でもがいているなら 僕だってそうなんだ」というくだりは、今なお感慨深いものがある。僕のカラオケの定番曲。(ただし通常はキー:-2なので、最後の音変化がつかみにくい)

魅力は

やっぱり表現力の豊かさ、メロディーの多彩さにあるのではないだろうか。歌詞の深さもよく取り上げられるけれども、それは頭で考えながら聴いているとき。『Discovery』以降、桜井さん一人で作詞作曲をしてきているわけだが、一人が作曲していると思えないほどの楽曲の多彩さ。アップテンポであろうがスローテンポであろうが、きちんと曲にあわせて表現を変えられる柔軟さ。ファンを飽きさせない魅力はやっぱりそれだと思う。今のオーディオシステムなら桜井さんの微妙な表現をよく聴き取ることができる。「イマジネーション」で聴けるよ、というならウチに来るべきである。きっと自分勝手な解釈で聴いていたことを痛感する。自分がそうだったからである。昔は「高音さえ出れば・・・」などとずいぶん傲慢な考え方であったが、今ではまったくそんなことは思っていない。できる限り彼の表現力に追いつきたいと思っている(まあ、無理だけどね・・・)。


まだまだ話は尽きない。続きます。

再生音楽の文化的価値

仰々しいタイトルである。難しい話を書くつもりもないが、僕が書くとどうにも難しくなりがちである。今まで言ってきたことの繰り返しになることも多いが、一度まとめてみようと思う。まあ、諸事情によりこんなことを落ち着いて考えられる状態ではないのだけど、その諸事情をここで吐露するのは、相当気が引ける。とりあえずはやってみる。


いわゆる録音再生というものに対しては、時代とともにその扱いや価値というものは移り変わってきている。エジソンが蓄音機を発明したとき、まさかここまでのクオリティで音楽が再生できる時代がくるとは思わなかったに違いない。当時は不思議なカラクリ程度であったろう。それが今や、単なる「ライブの代わり」ではなくて、一つの作品として味わえる次元にまで達している。これはある意味で、というよりは、もう間違いなく、「実体験」である。それも繰り返し味わえる。書物と同じである。人間的な成長が作品の捉え方を大きく変えるという点においても、書物と似ている。書物は文字を記録しているのに対して、録音は音という空気の疎密波(圧力差あるいは振動)を記録している。それは文字と違って人間の目には見えないので、それを実際の空気の振動に置き換えてやる必要がある。それが音響機器(オーディオ)である。書物の場合でも、文字情報だけではなんともしようがないので、実際は紙に印刷したりしないといけない。いずれにしても、どちらも「情報」であることには変わりない。それを著した人の思いがパッケージされてそのまま残っているのである。まさに遺産。そこにパッケージメディアとしての価値がある。


オーディオ機器というのは、そうした遺産をよみがえらせる手段であり、非常に重要な位置を占めている。ただ、技術が成熟した今、質的な問題はほぼ解決されてしまい、量産製品であっても多くの人に満足を与えるようになった。結局それは、昔はミニコンポやラジカセであったり、今はiPodに代表されるポータブルプレーヤーである。完全に「手段化」したオーディオは、再生に付随する機能、サポートする機能の充実と軽さや薄さなどの持ち運びでの便利さが追求されるようになり、ハードウェア自身を意識することなく音楽を再生できるので、ある意味究極のオーディオ機器かもしれない。これについては、以前にこのブログでも触れたことがある。けれども、それによって音楽の価値が高まったかというと、必ずしもそうとはいえないように思う。量産製品で問題なく聴けるということは、別段音楽を聴くことに特別な感じを与えない。それに何の問題があるのか、という人もいるだろうが、例えば(極端な例ではあるが)エアーズロックがそこらへんにたくさんあれば、わざわざ観光として見に行く必要もないだろう。そこまででなくても、僕が京都にいるとき、二条城のそばに住んでいたのだが、特に二条城に行くことが特別でなくなったため、珍しさを感じない。得てしてそんなものであろう。敢えて見に行くのは、珍しいからである。音楽を聴くことも、結局珍しくなくなったため、どうも趣味として音楽鑑賞といっても、平凡な大衆娯楽的な印象を与えるのではないか。とはいえ、別に今の状況を否定するものでもないが。利便性を追求したオーディオもまた必要なのは事実である。というより、これだけ普及してしまうと、なくなったらなくなったでかなり支障が出てくる。僕が言いたいのは、今のように巷に音楽が溢れかえっていくと、その「情報」が重要になり、内容の充実はだんだん軽視されていくのではないか、という懸念があるということである。特にポップスはその傾向が著しい(今に始まったことではないが)。僕のように、音楽再生を「非凡」なものと捉えて、その追求に腐心する人もいる。でも多くの人がそう考えなくなると、資本主義経済が台頭する現在では、質を保った「特別な」録音再生を維持するのが難しくなっていく。要するに、世の中量産機器ばかりで溢れてしまうようになる。もうすでにそうなっていると思う。そうなると、作られるパッケージメディアも、量産機器での再生を前提とするため、質が低下していく。これの繰り返しをすると、量産機器が当たり前、それ以上の質で聴こうとしている人は変わった人であるという扱いになり、頑張っている人は逆に奇異な目で見られるようになる。CDの登場は、間違いなくこれを促進した。アナログディスクの時代は、再生するのにテクニックが必要であったり、ちょっと扱いを変えるだけで音が大きく変化したので、自然とハードウェアを意識するようになっていた。CDになってから、誰が再生しても一定の質を保てるようになったため、ハードウェアをあえて意識する必要はなくなった。それなら量産機器でよい、ということになり、上記のような流れになったのだろう。


救いに感じるのは、クラシックやジャズが依然として高い質を保っていることであり、さらには少数ではあるが細々と質の高いオーディオ機器を作り続けているメーカーがあることである。クラシックやジャズは、打ち込みによるレコードは通常されず、アコースティック楽器を使用するため、再生が難しい。難しいといっても普通の人が考える難しさではないが。しかしながら、これらのジャンルを聴くは音質を重視する層が多いのは事実であり、逆にオーディオファンはよくクラシックやジャズを聴く。パッケージメディアの質とオーディオが一体になって初めて、いい音楽再生ができることがわかっているからである。お互いの協力により、今のような再生音楽の文化が出来上がったといってよい。ただ、量産できないからといって何百万円、何千万円といったオーディオシステムを作るのは、夢があっていい話ではあると思うが、生活にマッチしていないのは明らかだと思う。そこまで行かなくても、それと次元を同じくするためには50万円くらいのシステムは必要である。それならまあ大型の液晶テレビと同じくらいの値段なのでいいかもしれないが、買う人は少数だろう。オーディオというのは、言ってしまえばそれくらいの価値になっているということである。音楽も然りである。質が低くても、ようつべなどでタダで手に入ればよいという人も多く存在する。


じゃあどうしたらいいの、と言われると、そいつが難しい。価値観の多様化とはよくいったもので、おおっぴらに音楽再生を趣味として薦めることは押し付けととらえられかねない。僕が今できることは、できるだけ多くの人にいい音楽を味わってもらうことだけである。だから訪問は歓迎するし、こちらから招待したりもしている。布教活動?である。そうすることで、趣味にしてもらうまではいかないにしても、音楽に対する意識を変えてもらうだけで、価値というのは高まると思っている。


ちなみに、あえて音楽である必然性はない。みんな自分が拠所としている価値観や趣味はあるはずである。それぞれが他の人に魅力を伝えていく活動をすれば、世の中もっと面白くなると思う。押し付けと思わず、自分の世界を広げると思えばいい。MTBの布教活動も同時に進行させているのはそのためである。自由と言うのは、なんというか拠所がなくてふわふわしていて頼りないが、その中で道標となるものに出会えたら、幸運であると思う。そうした人たちが、今後価値観が多様化する中で、遺産を受け継ぎ文化を創っていくのだと、僕は密かに思っている。

比較試聴について(2)

さて、今日は僕がいつも体験的に行っている比較試聴の方法を整理してみる。

  • 同じソースを使う(当然だね)
  • オーディオ機器をウオーミングアップさせておく
  • ボリュームを合わせる(ノブの位置ではなく感覚でよい)
  • 各ポイントに注意しながら聴く(下記は思いつく限りの例)
    • S/N(ダイナミックレンジがきちんと取れているか)
    • 解像度(細部まで細かく意識して追えるか)
    • 定位(空間の中の楽器・ボーカルの位置が明確か)
    • 音場感・空間感(音の広がり、奥行き、スケールが再現できているか)
    • 低域・中域・高域のバランス(低域と高域を目立たせるとよく聴こえがちなので注意)
    • 楽器の響き方・鳴り方
    • 質感・肌合い(バイオリンの弦を弓で弾くときの感触など)
    • 残響(ホールトーンの複雑微妙な響きが表現できているか)
    • 音のつながり(縦割り的に聴こえないか)
    • アタック音(スムーズかつ刺激的でないか)
  • 自分が聴きなれたソースとのイメージ比較(上記項目など)
  • 感情面の表現力(熱気、情熱)
  • 時間をかける(即断しない)

言葉に表現するとこんなものだけど、実際はもっと無意識的にやっていることもあると思う。これは別に新素材CDの比較試聴用というわけではなくオーディオ機器を選ぶ場合も同じことをしている。もっともオーディオ機器の場合は直感で選ぶ場合も結構多いが。

さぞ客観的に評価していると思われるだろうが、実際は恐ろしく主観的である。であっても、まったく恣意的なものではなくて、それを防ぐために「時間をかける」ということをしている。比較試聴において一番まずいのは即断である。少しだけ、曲の一部分だけ聴いてこちらの方がよい、といきなり決め付けてしまうのはよくない。それに時間をかけることで主観的なものが少しずつ蓄積され、いつの間にか頭の中に音のイメージが形成されていく。傾向がつかめてくるのである。例えば、「アキュフェーズの音」というものが僕の頭の中にはあって、新製品が出てくるたびにそれを思い出しながら聴くのである。そこで大きく印象が変わることはまずなく、もしあるとすればメーカーが大きく音作りを変えたときだけである。アキュフェーズは新製品であっても、S/Nが高く繊細な音をいつも感じさせる。ディナウディオのブースはいつ行ってもディナウディオの音である。それがコンパクトな2WAYであろうと、マルチウェイの大型システムであろうと同じ。メーカーとして音は一貫しているのが通例である。

僕の場合オーディオ歴が約10年近くあるので若年層としては割とベテランの域だと勝手に思っているが、50年以上もオーディオを続けている人もいて、そういう人は経験も豊富で視点も鋭い。音楽に対する知識や造詣が深い。きっと聴こえている音も違うのだろうなと思う。同じように、素人の人と僕が同じ音楽を聴いても、絶対に同じ音には聴こえていないはずである。比較するものがあるということは、自分の中に一定の基準(経験や年齢を重ねるごとに変わるが)を設けられているということである。実際は比較試聴も単純ではなくて、結局は最終的に人の主観に委ねられるのだから、客観性がなくても別段気にしなくていいと思う。

最後に、アキュフェーズの創始者・故 春日二郎氏が著書(非売品)の中で書いてあった言葉を紹介する。きっと多くのオーディオファンが体験的に感じていることではないだろうか。結局は、自宅に引き入れて聴きこんでいくのであるから、評価法として理にかなっていると思う。

(製品評価で、オープンテストか目隠しテストかの議論の中で)多数の人の主観が集まって客観性を帯びてくる。主観は一見ひ弱に見えても、多数の人の時間蓄積による評価は、目隠しに劣らない重要な意味を持っていると思います。(中略)さまざまなレベル・セッティングで、さまざまなソースにより、また、体調や感性の平均化された状態で比較、製品間の優劣を総合的に体感し、この方法で最終判断を下すことで大きな誤りはなかったと私は信じています。